favorites of xmny3v
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かっこいいけどなんかちゃう、と思ったらハナレグミ。
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ザハ・ハディドからプレゼンテーション動画。「アンビルドクィーン」呼ばわりを払拭する作品の陳列に始まり、8万人のハンドリングに続き、各競技協会の要求とコンサートイベントでの利便でサスティナビリティを説く。3ヶ月?でカバーできるデザイン成立させるの可能かな。頑張れ国内建築家、とも思うのだけど「やっぱザハ案でいいじゃん」派を起こしそう。森さんも軽く乗りそう。
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思考の泡 ばか |
大量のデータアップロードで回線を長時間占領したくないユーザのためにGoogleが物理メディアによるデータ送付サービスを開始
無茶しやがって……。
一方そのころキューバだかどこだかでは「人力インターネット」が半ば黙認されてるようで。
パソコンは何とか買えても通信環境が絶望的な時代遅れっぷりで昨今の動きにはとてもついていけてない。ならば、と、どこかの誰かが、USBメモリに最新のニュースやテレビ番組をみっちり詰めて、どこからともなく持ち込み、中身をみんなでコピって、メモリそのものは飲み屋とかでその辺にいる人に回す、回ってきたメモリの中身が古かったら各自の手持ちの情報でばんばん上書き、という、草の根バケツリレーシステム。
もう、いっそ、Amazonが出版権とか放送権とか買えばいいんじゃないですかね。メモリに詰めて直送するの。だめか、Amazon.co.キューバが多分ない。
ここまで書いて、ふと、そういえば、こういうシステムはどっかで聞いたことあるぞ。コンテンツ(物理)を物理でやるのがデアゴスティーニ、ではソフトでやると、
もう、いっそ2、メモリ積んだドローン飛ばしてWi-Fiで落とさせてよ。お豆腐屋さんがプープー回ってくる感じで。ドローンが自宅上空に来るとアラートがケータイに飛んでくるの。
メモリの中身やドローンそのもののバッテリーとかは早馬方式ですね。中継基地があって、適宜リチャージor交換。あれ、黒猫とかと組めばわりといけそうな気がしてきた。だめだ、クロネコ.co.キューバが多分ない2。
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「アタシは700通の手紙を受け取った」とか週刊文春あたりでインフレるぞ、こりゃ。
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自分が一般的に気持ち悪いと認識される事を思春期に学ぶ経験が
その後の発展にどのような影響を与えるのかだれか研究するといいと思う
Re: 命を(いぃーのぉーちぃーをぉー)……燃やせぇぇぇええ!(feat. 長野原みお)
アウトだよッ!(feat. 長野原みお) |
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小型犬は基本的に大嫌いなのですが(喧しいので)、流石にそれは同情しますね・・・・
そもそも犬の飼い主のうち、犬を飼うに値する人格や能力を有している人が如何程いるのかという疑問。
犬小屋の周りにク◯が何日も放置されて悪臭が垂れ込めているのを見ると、やるせない気持ちになります。
ああいうのが気にならない飼い主って、きっと家の中もゴミ屋敷状態なんだろうなぁ。
色々延びまくってますね |
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網で細長いものと発送纏めたら80x60x50cmの馬鹿でかい箱で届き8割近く紙でしたはい。
ボーカスペーパーでゴミ袋1袋半とか・・・
http://gt7u9x.sa.yona.la/1550 |
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目は悪くなっていないのになにもかもぼやけて見える
http://gt7u9x.sa.yona.la/1549 |
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痛みを伴いながらももえている
Re: お前の血は何色だ
命を(いぃーのぉーちぃーをぉー)……燃やせぇぇぇええ!(feat. 長野原みお) |
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知り合いから聞いた話を。
さらにその知り合いが、まあ、大金はたいてチワワ買って、嬉し恥ずかし喜び勇んでチャリで散歩に連れ出した刹那、初手の漕ぎ出しでいきなりあっさり轢いたそうです。自分のチャリで。ペキッと。
もうね……
飯テロって楽しいかもしれない(開眼) |
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撮るのが下手なので下手に撮れちゃう(当たり前)ところがまたいい。
世界中でいろんなものが爆発炎上してるらしくて嫌んなる。 |
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タイトルで全部言っちゃった |
さっきも国内で何かあったらしい。それが本当なら、ですが。
Twitterに投げたもの。 |
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涙で汚れた顔を洗いながら、また泣く。
49日目には向こうへ渡る魂を、けれど永遠に引き止めておきたい。
こんなにもいとおしいと、気づいた時には掌は空っぽになっている。
皿を数えて、数が足りないと思った、52日目の朝。
抱いても抱いてももうあたたかくならなかった体の、小ささと軽さを、まだ手が憶えている。
さようならさようなら、素敵なあなた。あなたのいない世界の空気は、こんなにも薄い。
つらいつらい。あなたのいないことが、こんなにもつらい。
あなたがいない。どこにもいない。
● 「カップラーメンの麺が伸びている」から始まる140字の描写
カップラーメンの麺が伸びている。私はそれをじっと眺めている。眺めながら泣いている。チャーシューの色合いが、この間逝ったばかりの猫そっくりで、こんな寒い冬の日、このチャーシューみたいに丸くなっていたあの子の、もう二度とあたたかくはならない体。この冷めたカップラーメンと同じ冷たさ。
● "紅茶はすっかり冷めていた。"で終わる140文字小説
買った紅茶を飲みながら、じきに来るバスを待とうと思った。
にゃーにゃー鳴く子猫。それを見上げる母猫。睨まれても怯まずに、子猫をそっと抱いて地面へ降ろす。
こちらを見ながら去って行く猫の母子の傍らを、乗るはずだったバスが走り去ってゆく。
次のバスまで20分。紅茶はすっかり冷めていた。
● 信号は赤になったで始まるSS
信号は赤になった。ここの信号は長い。足踏みが自然に回れ右して、すぐ後ろのローソンへ向く。カフェラテを買う間に信号が青になり、店を出る時にはまた赤だった。
湯気の立つコーヒーをそっとすすり、湯気越しに見える赤信号への苛立ちは消える湯気と一緒に消えた。
信号は赤になった。
手持ち無沙汰に眺める向こうで、こちら側を見る誰かと合う目。思わず浅く会釈をすると、向こうが微笑みを返して来た。
信号が青になる。微笑みに引き寄せられて、けれど足は遅れて前へ出る。
見知らぬ微笑みとすれ違う私も知らず微笑んでいた。
道具と私 |
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他の用はあるのだが、何となく気が乗らずに後回しにして、こうやって意味もない何か文字の羅列を吐き出してしまうことがある。
何が書きたいと言うわけでもないのに、何か文字を書き連ねずにはいられずに、書き連ねると言って今では紙とペンを用意するわけでもなく、かたかたキーボードのキーを叩いて、エディタに文字が並ぶのを左から右へ眺めている。
何か言葉が浮かぶと同時に指が動いて、モニタの画面に文字が出て来る。思考が先か指が動くのが先か、時々分からなくなる。文字を吐き出しているのが、一体私の脳──ほんとうにそんなものが存在するとして──なのかこの指先なのか、けれど恐らく、私の脳が働くのをやめれば、きっとこの指も動かなくなってしまうのだろう。
キーボードをかたかた叩く。その行為が、私の目の前に文字を生み出す。キーの感触、押せば引っ込み、指を浮かせれば元に戻る。かたかたと言うよりは、むしろぱたぱたに近い感触。私はかちりとしっかり押し込むタイプの、キーのぶ厚いキーボードよりも、ノートPCによくある、奥行きのない薄いキーが好きだ。夜中にひとり起きていても、かちかちと言う音で他の誰か──今ではもうその心配はないのだが──を起こすこともない、薄い薄いキーが好きだ。
キーボードのキーの打ち具合は、案外と書く気分を左右する。或いはそれは単に、何となく書く気が起こらない時の言い訳だろうか。
ビリヤードを真剣にやっていた時に、セミプロの友人が私のキューを欲しがったことがある。
まだ初心者だった私の持っていたキューだから、先がどうの握った時のバランスがどうのと理屈をこねて選んだわけでもなく、単に握りの部分の色が好きだと言う理由で私が手に入れたそのキューを、なぜか彼はひどく気に入って、1本のキューに平気で10万近くかそれ以上を払う友人が、私の、1万も払ったかどうかと言うそれを、ずいぶん長い間私に譲ってくれとごねていたものだ。
数ヶ月過ぎた頃、私はついに根負けして彼にそれを譲り、代わりにと彼が私用に1本選んでくれたものと交換と言う形で事態は収まった。
新しいキューの握りは、特に私が好きと言う色ではなかったが、使う内に目も慣れ、初心者が道具にこだわったところで技術が必ず上がるわけでもないと理解して、私の指と腕は次第に新しいキューに慣れて行った。
友人は、私のものだったキューを一種の幸運のお守り的にして、大事な試合には必ず持って行くようにしていた。移り気な彼が、今もそのキューを持っているのかどうか、私は知らない。
その後手に入れた他のキューと一緒に、私のキューたちはケースに入って今は押入れの中だ。今もビリヤードは好きだが、私の真剣な気持ちはずいぶん前に失せてしまったままだ。
道具がどうのと言うのは、結局使う人間の思い込みと言うのが大半なのではないかと思う。安物だろうと目の飛び出るほど高価なものだろうと、使い勝手がよければ問題はない。
宝の持ち腐れと言う言い方は、特に私のような人間には耳の痛い表現で、時々何万もするキーボードに心魅かれてしまうのだが、道具にお金を掛けたからと言って、自分が満足する文章が生み出せるわけでもない。
文章など、その気になれば、手の届くところにあるボールペンとマクドナルドの紙ナプキンさえあれば何とかなる。私が今こうして並べている言葉たちが、例えば何十万もするAppleのコンピューターを使ったものか、たまたま机の上に散らかっていた裏の白い書き損じの紙の上に書かれたものか、そんなことは文章そのものには無関係だ。
ふと思うが、私はもしかすると、指と手を動かして紙の上に文字を記す作業よりも、キーボードを叩く作業の方が好きなのかもしれない。
私の書き文字が読めた代物ではないとか、私自身が自分の文字を嫌いだとか、そういう理由は実は後からひねくり出したもので、私は単に、手で字を書くと言う作業が(それほどは)好きではないのかもしれない。
キーボードを叩くと言う動作が好きであることは間違いがない。英語のブラインドタッチが必修と言う機会があり、その時は何の役に立つかと思ったのに、日本語もローマ字入力──それまでは我流のかな入力だった──に変えれば入力作業が楽になると気づいてからは、すっかりペンと紙から離れてしまった。
それを堕落と感じて自省したこともあったが、結局私は、その時にキーボードのキーを叩くと言う作業が好きなのだと気づいてしまっただけだったのだろう。
私の指がキーボードを叩く。モニタに字が現れる。私が思う通りの字がそこに並び、私は字を並べて言葉を出し、言葉を並べて文章を作る。
気まぐれに、最近買った芯の入れ替えのできる安物のボールペンで、手近な紙に殴り書きをしてみる。さらさらと滑るように出て来るインクのおかげで、なめらかに線が描かれ、気に入って入れたダークブルーのインクのその文字に、私はちょっと遠くを見るように目を凝らしてみる。
小学生でももうちょっと読める字を書くだろうと言うひどい手だが、インクの色に幻惑されて、一瞬の間だけはそう悪くはないと思える。
数秒の後(のち)、冷静になって自分の悪筆にやはりうんざりしながら、それでも久しぶりの自分の手書きの文字に懐かしさを感じることはやめられず、私はふと久しぶりに詩を書いてみたいとふと思った。