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Re: 脊髄反射
答えはみんなの心のなかに。 |
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なんだか『今年の流行色って・・・お前が決めてんのかよッ!』に通じるものがありますね・・・・結局、全部電通の陰謀なんですよ。
>作曲者の自演や直接監修した音源が残っていません。つまり厳密な意味での本物がどこにもない。
以下、再現性と信ぴょう性の話
ピアノロールってあるではないですか。『作曲者自身の演奏』の再生音源を聴いた時のコレジャナイ感、というか、絶対アレって正しいけれど正しくないですよね?(素人判断)。再生に利用するピアノの経年劣化(もちろん最高のメンテナンスがなされているのでしょうけれども)とか、そもそもアナログデータの限界、というか・・・・そういったものを含めれば違って当然なんでしょうけれど、でもあれはあれでオリジナリティとしての価値があるものなのかなぁ・・・
でも、『作曲者自身の演奏を収めたレコード』だったら、格段に信ぴょう性が上がる気がする。同じアナログなのに。
ブックカバー (6/12) |
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友人に布小物を作る人がいて、用途がないままただ手元にあったきれを、私の好みに袋物にしてくれたことがあった。
ある時思いついて、本のカバーは作れるだろうかと訊いたら、ハードカバーと文庫本用に数枚作って手渡してくれた。お礼に、赤ワイン(彼女はそれ以外の礼を絶対受け取ってくれない)を数本送り、私はうきうきを読んでいた本にもらいたてのカバーを掛けた。
外出には大体本を持ち出すので、カバーがあれば表紙が折れたり汚れたりすることを防げる。家にいる時は、どの本を読んでいる最中かすぐに分かって便利だし、カバーの折り返しをページの間に挟んでおけるので、しおりを一緒に持ち出し忘れて困ることもなくなった。
本が汚れなくなった代わりに、毎日何度も触れるカバーに汚れが目立ち始め、その頃にはもうブックカバーは私の日常品となり、タオルやTシャツと一緒に洗濯機の中で回るようになった。
角が少し擦り切れ始めている。件の友人に修繕を頼むか、それとも新しいのを作ってもらおうか。コットンの手触りを親指の腹に楽しみながら、私はぼんやり考えている。別の1枚は着物の生地で、かすかな凹凸のあるなめらかな感触が、本と手に取るたび心地良い。
カバーのせいで覆われた表紙は見えず、そのせいで、ページを開くたびにまるで真新しい本を今初めて開くような心持ちを、私は何度も味わうことができる。
裏表紙のあらすじも見えず、一体これは何の本だったか、しおり代わりの折り返し部分を剥ぎ取るまで甦らない私の軟弱な短期記憶が、こんな時には少しだけありがたい。
表紙と本の内容が一致しないから、本棚から選ぶたびに、初めて読むような気持ちで私は最初のページを繰る。
カバーの掛かった本に特別な親近感を抱いて、私はそれをカバンに入れる。
これは私の本だ。私が読んでいる本だ。
自分が選んだ特別の1冊を手に、私は外に出る。バスを待ちながら読み、バスに揺られながら読み、カフェラテを飲みながら読み、またバスを待って読む。
家に着き、カバンからそれを出し、次はベッドへ持ってゆく。睡眠薬のような、私の読書の時間だ。
読み掛けのページに折り返しの部分を挟み込み、目覚ましや照明の傍へ置いて寝る。
明日本を開く時にはまた、おぼろな記憶で、一体どんな話だったかと考えながら続きを読み始める。
私の、少し壊れてしまった記憶を覆う包帯のように、ブックカバーは、私の読む本を覆う。私の読む本を、そうして守っている。
私の脳と記憶も、そんな風に何かに護られているのだろう。
夢の中に気まぐれに蘇って来る記憶の断片が、正しいものかどうかも定かには出来ない私の脳は、失った記憶の代わりのようにそこに文字を詰め込みたがる。文字を詰め込んで、失くした記憶の存在の記憶を、脳の外へ追い出してしまおうとしている。
本の表紙は覆われて、題も作者もあらすじも見えない。分からなくても、物語は楽しめる。きっとそれでいいのだろう。
ブックカバーに覆われてそこに置かれた本のように、私も毛布にくるまって眠る。しおりを挟んだ本のように、どこかから始まる夢の続きの中へ、読みかけのページを繰るように入り込んでゆく。
目が覚めれば忘れる夢、そんな風に、私はまた本を読む。
Re: 似て非なるもの
脊髄反射 |
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Reply 脊髄反射 | |
多分、例によってダラダラ追記/改稿します。
追記
「保存」したいのかそうでもないのか、が明確になっていれば問題はないんだろうな、とは思いました。
ただそれを演奏者や主催者が前もってちゃんと言うかどうか。そして、「本物」好きの日本人が、日本人向けの解釈とわかって買うかどうか。
クラシックでタチが悪いのが、解釈や奏法にも流行のようなものがある点です。
そしてその流行は、どうしても、その時代の中である程度ショービズとしての成功を目指していますし、さらに、クラシックの「クラシック」な曲は、作曲者の自演や直接監修した音源が残っていません。つまり厳密な意味での本物がどこにもない。
クラシックと呼ばれるような曲の中でもごく最近のものなら録音がある場合がありますが、例外扱いとしていいくらいの量ですし、そうでないような曲は、書かれた当時に使われていた楽器の構造が今のものとかなり違うケースも非常に多い。
また、仮に「本物」があったとして、では以後全ての音楽会はその再現を目指すべきなのかという問題も。
先の投稿で引用した分の元記事で「美味しいけど日本人の口には合わないかも」はテレビならではの茶番かもしれません。番組に「メキシコの鉄人」はいないし、そんな「マイナーなジャンル」で番組が用意した和仏中の鉄人を負かすわけにはいかないだろうから。
クラシックにおいては、嫌な言い方ですが、この茶番を茶番と思わずに信じ込むことまで含めて教養とされているような部分があるように思います。
本場で修行した人はこうやってるんだから、これは、いいものだ……!!そして、マイナーなものは、マイナーな理由がある、あまりよくないものなんだ。
そうかと思うと、一方、「楽譜の出版社は、『世紀の大発見』をいくつかストックしている」という陰謀論のようなことまで語られることもあります。冗談半分というか半分本気で。
そうして改訂版を小出しにしないと楽譜が売れないから。「今までのレシピは間違いでした。考案者はこう書き遺してました。すみませーん♪」です。
こっちの耳や手がいくら慣れていようが、間違いでしたと言われてしまっては「正しく」していくしかない。
札幌ラーメンは産地呼称にするという手があるかも。札幌で仕込まれて茹でられないと名乗れない。つまり、札幌に来い。あああああ、それで「サッポロ一番」なの?漢字は地名だから使えなかったの?
ラーメンポリスはよ。「家系」は、どうだろうな……ポロイチやチャルメラやチキラーを茹でただけの「(自分の)家風」とかで逃げるか。
Re: クラシックでは邪道とされる、ような気が、する。 — 昔、料理の鉄人という番組で挑戦者と...
似て非なるもの |
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『インド人留学生がボンカレーをめちゃくちゃ気に入って、「この和食めっちゃうまい!これと似た雰囲気のやつインドにもあるんすよー、カレーっていうんですけどね」って言った。』
のコピペを思い出しました。
で、本題的には、音楽の側面のどこに重きを置くか次第だと思うのです。
・伝統的価値観→改変不許可
・伝播過程での変化も含めて文化とする価値観→許可
・娯楽としての側面→許可
・ショービズとして成功を重視する場合→許可
たぶんですが、人がモノに合わせるんじゃなくて、モノを人に合わせるほうが、当たり前ですけど気持よくて自然なことだと思うのです。もちろん、改変されていない原典に触れることにも大切な価値はありますが、本物に触れるのならば本物が本来あるべき場所に赴いて触れるのが正しいと思う。
パリで食べた札幌ラーメンがおおよそ美味しくなかったことを、この舌ははっきりと覚えているのさ・・・・
理由 (6/11) |
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何もしない日が続いて、そうすると脳が死んでゆくのが体感できる。脳はどんどん死んでゆき、動くはずの部分がまったく動かなくなる。その進行を何とか止めたくて、何かやろうと思った。
やっていたことをまた再開すればいい。せめて2日に一度家を出て、体を動かして、何もせずにモニタを眺めているなら、せめて手くらい動かそう。
何となく探して、750 Wordsを見つけて、「このくらいなら書けるだろ?」と言う文面に、そうかなと思って、中に入ってみた。
何も特別なことを書くわけではなく、ようするに日々の覚え書き(今私がこうしてしているそのままだ)を習慣として書きためてゆこうと言うことなのだが、残念ながらその750語と言うのはアルファベット系の言語しか対応していないらしく、私が何を書き込んでもきちんと字数を数えてはくれなかった。
そこで一度放り出し、それから改めて場所を作って、何でもいいとにかく深く考えずに指と手を動かし始めた。
書けば、そこにその瞬間の私が現れる。退屈しているかもしれないし、頭が空っぽかもしれないし、不機嫌かもしれないし、やたら浮かれているかもしれない。感情の現れない字が並んでいるだけに見えて、私自身には私自身の内側が見える。
今日の私は二度とどこにも現れない私だ。その私を、その瞬間に縫い止めてみようと、そう思って今私は指を動かしているのかもしれない。
人目のあるところに、こうやって自分の書いたものを晒して、だが私は私自身に向かって書いている。私自身が、私自身を知りたくて、こうしてただ反射のように指を動かしている。
壊死した脳を、それでも何とか動かせないかと、壊死してしまった後に手遅れかもと思いながら未練がましく、私は残った脳(残っているなら)を動かしてみる。
苦しまなければ書けないのだと、そう思った時があった。書かない私は私ではなく、だから苦しまない私は私ではないのだと、何の疑問もなく、のたうち回りながら考えたことがあった。
苦しみは減ったが、書きたいと思う気持ちはとりあえずは失せず、もちろんそれが指先に伝わるかどうかはともかくとして、私は今日もキーボードを叩いている。
続くまで続けてみよう。今日はここまで。
クラシックでは邪道とされる、ような気が、する。 — 昔、料理の鉄人という番組で挑戦者と... |
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Quote 思考の泡 | |
すごく面白い問題。
日本人演奏家が日本国内で日本人を対象に演奏活動をしていくならば、日本人の感性に合う解釈で演奏するという行為も存在するのかな?とか。で、それを本場の人に否定されたとき「いや、私は日本人として日本人のために演奏してるんだからこれでいいんだ」と胸を張って言えるのか。あるいは音楽の世界においてはそれは邪道なことのか。
自覚がない場合はともかく、故意にあるいは積極的にやっていいのか、どうか。
また、その根拠は。
他の娯楽ではどうだろう。わー娯楽って言っちゃった。料理が娯楽かどうかはともかく、だ。
例えば実写映画を作るときに外国の街並みを撮った後、編集の段階で、意図して、「色調」を日本人好みに変えるなど。
ただしこの映画を国外で上映する予定はなく国内の映画館等のハードウェア的な再生環境についても考慮しないものとする。
また、他の国ではそういうことをしているのかどうか。
イスラム圏では肌の露出を抑えるために服を描き足す修正が入ったりすることも多いようですが。特にアニメ。
Re: 「デース」
すごく近いんですが足を両側に開かないほうがよりよいです。 |
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Reply 変態‼変態‼変態‼変態‼ | |
何がよいのかは相変わらずさっぱり。
「崩した横座り」「横座りで手をつく」なんだろうなあ、やっぱり。
ポーズはすでにご想像かとは思いますが、これがかなり近いです。
いったいこの種のポーズの何がいいのかずっと考えていたんですが、ひょっとしたら実は「肘がちょっと反って(逆に曲がって)いるところ」なのかもしれないと今さら気づいた。
肘が伸びきって、体重も多少かかっている状態。肘は順方向に(普通の方向に)曲がっていても多少ならかまわないんですが、少なくとも、身体が傾いている側の手の拳底には体重が乗っていてほしい。新手の「床ドン」。全身で。
なんだそれ。脚や腰は主役じゃないじゃん。
ともあれ、これ以上身体が寝て足が伸びるとそれは単に「ごろ寝への移行中」となり、別にあんまりなんともない。
緊張と弛緩のバランスだろうか。全体的に三角形に見えてどうのこうのとかいう系か。考察と説明を放棄。
それにしても、今やオレはすっかりエアプ勢なのにタイトルだけでポーズがわかってしまったのがちょっと嫌。
ブラのカップはトップとアンダーの「比」で定めるべきと常々思っている。 |
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思考の泡 | |
「差」だと胸郭の造りの問題にもなってくるから。
それとも、こういうのはある程度わかりにくくしておいたほうが都合がいいというか逃げ道になる場合があるからあえてそうしているのか。
以下蛇足。
同様に、ハイヒールは高さでなく「傾斜」で決めるべき。
ってあれは規格自体がないか。あるの?
あのポーズ(姿勢)に名前はついているんだろうか。 |
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思考の泡 | |
正座をしたまま、手を膝の片側斜め前か斜め後ろについて、膝から下が多少崩れて、ほら、あの、あるでしょう、「……あの女のところに行くのね。そうなのね」みたいな時のあれ。
単なる横座りではないんです。ほんのりクネっとシナって手をついてないとだめなの(何がだめなのかはよくわからない)。
いわゆるグラビア業界なんかでは符丁みたいなものがあるのかな。ないと不便だよね多分。
舞台方面やヨガ関係ならあるだろうか。絵とか。
6/10 |
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itext | |
何かを書く時に、いちばん手間取るのはタイトルだ。書き上げた後で頭を抱える羽目になる。
ごくまれに、最初から決まっていたり、途中で何となくそれらしいものが浮かんだりすることもあるが、たいていの場合は書き終わった後で気がついて、まだ終わってはいない、と言うことになる。
自分で書いたものに、タイトルをつけるのは苦手だ。何も考えずに書いている証拠のように、書いたものを要領良くまとめたタイトルと言うものを考えつく脳まではなく、人の書いたものを見ては、タイトルのしっくり具合に歯噛みをする。
無題とつけて放っておいてもいいが、それでは並べた時にどれが何やらまったく分からない。そんなわけで、せめて書いた日付でもと、タイトル欄を埋める。
自分のつけたそれはさておき、人の書いたものにつけられたタイトルは、眺めていてわくわくする。これから読む文章を予想して、タイトルとそのまま一致すれば気分がいいし、せずにひねったものなら、読み終わってから唸るだけだ。
何かタイトルをと、書き出す前には思っていたが、空欄のまま書き終わってしまい、そして何も浮かばない今日も、日付だけを入れておく。
http://q7ny3v.sa.yona.la/2455 |
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ラッカーフィニッシュのギターがベタつく季節、なんだそれなんでやねん毎年思うけど今年もまた。
h77p://z1gSz7.54.y0n4.l4/l |
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kwout | |
ある程度、だろうな。
関連(弱)
渡る世間はナベばかり | 中村誠 |『ゲームマーケット』公式サイト
ワタナベさんの「ナベ」の字だけで神経衰弱をする鬼畜ゲーム。
Amazonでも扱いがある模様。
https://www.amazon.co.jp/dp/B01DF0E7VY
これは日本人でも困ります。
6/9 |
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itext | |
買い物へゆく。紅茶へ入れるための牛乳を買いに。
毎日必ず飲む紅茶に、牛乳が欠かせず、空のカバンに財布と鍵と文庫本を入れて、私は牛乳を買いに行く。
今時は店で買い物袋をもらえることは滅多となく、必ずそれ用のカバンなり袋なりを持ってゆく。今日のカバンは牛乳用の、しっかりした帆布のトートだ。別にこれ用と言って手に入れたわけではないが、重い牛乳を抱えて歩くのに大きさも頑丈さもちょうどよくて、いくつかあるポケットのそれぞれへ、財布を入れたり鍵を入れたり予備の手提げを入れたりして、私はほとんど空のそれを手に、バスに乗って牛乳を買いに行く。
牛乳を買うのが目的なのに、カバンに財布を詰めながら、まるでこれを持って外へ出るのが目的のように、私はちょっとうきうきとそれを手に、夕暮れの色のかすかに見えるバス停までの道を、通り過ぎる猫に手を振りながら歩く。
牛乳がなければ紅茶が淹れられない。それはほんとうだ。だがほんとうのところ、私はただこのカバンを手に、外へ出掛けたいだけなのかもしれない。
ほとんど空のまま、まだ軽いトートが、帰りには牛乳でずっしりと重くなる。家へ帰り着くまでに何度か右と左で持ち替えなければならないほど、帰り道には重くなる。
適当に作った夕食の後、ひとり分の紅茶を淹れて、たっぷりと、買って来たばかりの牛乳を注ぐ。これで私の1日は終わりだ。後は紅茶をゆっくりと飲み干して、読みかけの本を片手にベッドへ行くだけだ。
牛乳を運んだ後で空になったカバンは、たたんでクローゼットにしまって、私もベッドへ入って、眠る。
起きたらまた紅茶を淹れよう。牛乳はまだたっぷりとある。
掌と指に食い込んだ重さの分、冷蔵庫は牛乳で満たされている。それに安堵して、私は眠る。
http://q7ny3v.sa.yona.la/2454 |
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ヘイトとカウンターのあれこれ、結局のとこ戦争のミニチュアなんだな、と。人は社会に属し、生命と財産を守る共同体に奉仕することになっていて、そのグリッドのなかで経済活動をする、と。いまのとこマキシマムなグリッドが国家。国家間は軍隊の維持で個人を「守る」を担保していて、それは暴力の壁が前提で。
ニホニウムは嫌だな |
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思考の泡 ばか | |
仮にも物理法則に関わるものなんだから、たかが地名というか地域ごときが名前になるのはなんかちょっと。
既存のユウロピウムやアメリシウムも嫌い。
でもゲルマニウムはそうでもない。何このダブルスタンダード。
これが発見者の名前をいただくなら、まだ、逆にわかるんですけども。
……何が嫌で何がわかるのか自分でもよくわからない。ヒトなら死ぬからいいのかな。
命名権があるから自分のところの名前をつける、その町おこし感が嫌なのかな。
フソウムとかヤマトンとかアキツシマとかならわりと何ともない。なぜだ。何ともないのは多分オレだけだけど。
ヒイヅリウム。ヒイヅルクニウム。んー、やだ。
ヒノモトン。ヒーポン。んんー。
ともあれ、こういう時こそ小林製薬のセンスに任せてみたい。
……あー、ガンダリウムはどうでしょう。知らん顔して。
一応、日本発だぜ。元素は合金じゃないけど。うん、いろいろだめだな。
関連
文科省が出してる周期表。
http://stw.mext.go.jp/common/pdf/series/element/element_b9.pdf
・ウンウントリウムというのが以後ニホニウムと呼ばれる、でいいんですよね。そのうち更新されるんだろうな。
・地名/地域由来のがけっこうたくさんあってびっくり。
・サマリウムのところに堂々と「ウォークマン」と書いてあってびっくりしたんですけど国営としてはそれはありなのか。
「9族」の並びの、下から2番目です。


